フェチの話

 放課後、すぐに家に帰ることはせずになんとなくぶらぶらと体育館へ足を運んでみた。ワックスのかけられた床とシューズの擦れる音、ボールの跳ねる音、部員たちの掛け声。ほんの少しだけ空いた扉の隙間から部活のようすを覗き見る。奥のコートでは練習試合をしているのかボールが床に叩きつけられて、ちょうど岩泉がアタックを決めたところだった。それにほうほうと見惚れていると、試合が終わる笛の音と共に選手たちはバラけていく。「休憩ー!」と体育館に響いた声にこちらに向かってくる部員たちにばれないよう身を隠した。が、それも虚しく一番見つかりたくない相手に見つかってしまった。
「おっ、じゃん」
「げっ」
「あっ、ちゃん! もしかして俺の応援?」
「岩泉のです!」
 エロ三銃士が二人、ビブスを着けた花巻と及川が笑みを浮かべながらこちらに向かってきた。『岩泉の』を強調してダッシュで逃げようとしたが、すぐに腕を伸ばした及川に捕まえられてしまった。リーチの差が悔やまれる。
じゃねえか」
「岩泉!」
 その二人の後に松川と並んでこちらに歩いてきた岩泉に助けを求めるが、彼は「何やってんだ」と首をかしげてこちらを見るだけだ。花巻と及川、それに松川の三銃士が揃ってしまっては、いよいよ逃げる以外に選択肢はない。「どうしよっかな〜」とニヤリと笑う及川の手を振り切るべくぶんぶんと腕を振り回した。
「――ちょっと待って、ちゃん」
 ふと何かに気づいたようにこちらを見た及川の視線は真剣で、何も疚しいことはないはずなのに何かしてしまっただろうかと動きを止める。じっと目を合わせたまま、ごくりと唾を飲んで及川の次の言葉を待った。
「太った?」
「――なっ!?」
 そう言いながら、及川は掴んだ腕を上に移動させて二の腕を揉んだ。やわやわと肉を揉み込むようなそれに背筋がぞくっとして、腕を引いたら意外にもすぐにパッと離された。両腕を後ろに隠すようにして、じりじりと及川から離れる。
「せっ、せくはら!」
「言われてみれば、顔も丸いような?」
「えっ」
「いっつも弁当の後にデザート食べてるもんな、
「ウッ」
 ついでに帰宅後のおやつも。
 まるでおもしろい玩具を見つけたとばかりに、ニヤニヤと笑う三銃士の視線から逃れるようと岩泉の背後に回る。体型をそれほど気にしていたわけではないが、女子というものはこういう話に敏感なのだ。それを笑い話にされてはたまらないと、目の前に並ぶ三人を威嚇した。
「そーか? 全然変わってねぇように見えるけど」
「岩泉! これは! 女子にとっては死活問題なの!」
「俺にはわからんわ」
 心底どうでもいいといった風な岩泉は、私たちに交互に視線を向けてため息を吐いた。確かにここ最近は食べ物を欲望のままに摂取していた。岩泉は「よく食ってよく寝るのが一番だ」といつも話していたが、毎日とんでもない量の練習をこなす運動部男子と、授業の体育ですら当たり障りのない程度にしか動いていない帰宅部女子とは全く違うのだ。ぎりぎりと歯を食い縛り、いままでの自分の生活態度を悔いた。
「え、ちょっと触らせてみ」
 ニヤニヤと面白がって手を伸ばす花巻と松川を防ぐように岩泉を盾に使うと「おい」というドスの低い声が岩泉から漏れる。ざまあみろと花巻たちに向けて舌を出すと「お前もだ」と頭に手刀を入れられた。
「だって、花巻たちが!」
「わかったから、部活終わるまで待ってろ」
 送ってくから。そういって頭に置かれた手でそのままわしゃわしゃと撫で付けられて、胸がきゅんと縮む。岩泉の、こういったさりげなく優しいところが本当に好きだ。こっそりと彼のTシャツを握って息を大きく吸うと、背中に広がる汗の匂いに混じっていつもの岩泉の匂いがより強く感じられる。私はこれがとても好きだった。
「ちょっとやだ、及川さん見まして? 部活中にいちゃついてるんですけど」
「見たわよぉ、マッキー! ちゃんたらこんなところであんなにくっついて! 胸焼けしちゃうんだけどー」
「そこうるさいです!」
 わざとらしく大声で話す花巻と及川に、赤くなった顔で一喝し岩泉から離れた。岩泉はやれやれと首をふって次の練習の準備にここを離れてしまった。待って行かないで! 三銃士の中にひとり置き去りにされるなんて不安しかない。他の三人は手伝いにいかなくていいのか。
「みんなも練習戻りなよ!」
「まだあと三分ありますぅ〜」
 「残念でした」と花巻は両手で構えるようなポーズでじりじりと距離を詰めてくる。その狙いは、先程及川によって暴かれた私のウィークポイントだ。岩泉がいなくなって守ってくれるものは何もない。後ろに下がる分だけ前から迫ってくる花巻に集中していて、背後からの刺客に気づくのが遅れてしまった。
「――あっ!」
「んー、これは……。たしかに肉付きいいわ」
 前に出していた両腕を後ろから覆い被さるように捕まえられた。もちろん犯人は松川で、全く不覚だったと唇を噛む。年頃の女子に対して、笑いながらみなまで『肉』などという男がいるということをこのとき初めて知った。本当になぜ彼らがモテるのかわからない。
「ひどい!」
が逃げるからだろ」
「変態!」
に言われたくないよな」
 「俺ら別に匂いフェチないもんな」と確認するように言った花巻の言葉に、他の二人はうんうんと頷いた。
「匂いフェチじゃありません〜。岩泉限定匂いフェチですぅ〜」
「どこが違うの?」
「全然違うよ!」
 別に誰でもいいわけではない。好きな人の匂いだから好きなのだ、と不思議そうな顔をする及川に訴える。後ろから腕を掴んだままの松川と前に立つ花巻が何か目配せをしたと思ったら、花巻が手に持っていた自分のタオルを顔に押し付けてきた。
「ギャー! 汚い! やめて!」
「ひどくね?」
「当たり前ですけど!? 岩泉と比べたらピーチとドリアンだよ!」
「え? 俺がピーチ?」
「ドリアンだボゲ!」
 松川の腕を振りほどいて彼らから距離をとる。「なんかショックなんだけど」と眉を寄せる花巻をよそに、それを見ていた及川と松川はお腹を抱えて笑っている。なんなんだこいつらは、セクハラ三銃士に改名してやろうか。
 その時、ひいひいと引き笑いになっている及川に向かって豪速球のバレーボールが飛んできた。いつの間にか練習再開の笛が鳴っていたらしい。岩泉の怒号を聞いて、目の端に涙を浮かべた三銃士はコートの中へ戻っていった。



「岩ちゃんのせいでちゃんの口が悪くて及川さん悲しい」
「俺のせいかよ」
 制服に着替えるために部室へと向かった皆を部室棟のそばのベンチで座って待った。それから時間は経たずに、近づいてくる岩泉の声に立ち上がる。彼ら以外にも後輩らしき男子生徒が何人かいてお疲れさまと軽く声をかけると、雄々しい声で「お疲れッス!」と返ってきてあまりの迫力に驚いた。さすが、強豪は先輩後輩関係がしっかりしているようだ。
「……及川、さすがに邪魔しないよね?」
「いやだなちゃん、さすがにそこまで気が利かなくないよ」
 部員たちと揃いのスポーツバッグを肩にかけた岩泉に近づいて及川に見せ付けるように腕を回すと、岩泉には「暑い」と避けられた。ちぇっと舌を打って、岩泉から少し離れる。ふと、ふわりと鼻に感じた香りがいつものものと違うことに気づいて顔を上げた。
「なんか、岩泉から変な匂いする……」
「そうか?」
 眉を寄せた岩泉にくんくんと鼻を近づける。同じように岩泉も自身の腕を鼻に近づけて確認すると、思い出したように声をあげて「花巻に何かかけられたような気する」と言った。そう言われてみれば、岩泉から香るのはいつも花巻から漂うそれだった。
「花巻の匂いする岩泉とかやだ!」
「お前ほんと失礼だな」
 いつの間にか合流していた花巻がわたしの呟きを拾って声を上げた。花巻と揃いの香りを漂わせる岩泉ににいやだいやだと駄々をこねる私を岩泉はなんとも言えない表情で見ていた。花巻と一緒にやってきた松川なんて「引くわ」と真顔でこちらを見つめている。
「何の話だ?」
が岩泉限定の匂いフェチなんだってー」
「そうそう。なんかねー、岩ちゃんからピーチの匂いするんだってー」
「ピーチて。それはお前、ちょっと引くわ……」
「待って! 例えばの話だよ!」
 先ほどの体育館での話を、花巻と及川が無情にも岩泉に告げ口してしまった。それを聞いて怪訝な顏をしてわたしから一歩離れる岩泉を必死で引き留める。誰だってフェチの一つや二つはあるだろう。私の場合それが恋人の匂いだっただけの話だ。
「三銃士にだってあるでしょうよ!」
「ねぇ、俺らのことまとめてそうやって呼ぶのやめてくんない?」
 「イケメン三銃士ならともかくさ」とバカなことを言っている及川は放置して、私の言葉を聞いた松川が「俺は足かな」と呟いた。松川の視線から、スカートから出た足を隠すためにサッと岩泉の後ろに隠れる。
 「のには何も感じてないから大丈夫」と鼻で笑う松川に腹が立って、べっと舌を出した。そばで及川と花巻がうなじがどうとか髪がどうとか白熱した語り合いをしている。
「岩泉は? なんかないの?」
 松川の質問に岩泉が顎に手を当てて考え込む。
 私がずっと聞きたくて、でも聞けなかった質問だ。好きな人の好きなものは全部知っておきたいという女のわがままを叶えてくれた松川を、今回ばかりは心の中で讃えた。ドキドキと好奇心を胸いっぱいに膨らませて岩泉を見上げる。
「うーん」
「ない?」
「……や、強いていうなら二の腕とかか?」
「へぇ、何で?」
「なんつーか、何も守られてねぇ感じが好きかもな」
「――かッ! 」
 神よ。天が味方をするとはまさにこのことだと思った。先程私のことを肉と呼んだ男たちに誇らしげな視線を向けると「はいはい、よかったね」と適当にあしらわれた。何なんだ。
「……い、岩泉。その、触る?」
「触らねえし、出さなくていいっつの」
「えぇー!」
 ぐっと袖を捲ろうとしたのを腕を掴まれて止められてしまったが、岩泉のことをまたひとつ知れたのと三銃士たちによって傷つけられた心が癒えて浮かれていた。
 そんな私に及川が「でもさ」と口を開く。何とでも言ってくれ、今の私は大概のことではへこたれることはない。
「岩ちゃんは二の腕が好きなだけで、ちゃんの太った二の腕とは言ってないよね?」
「確かにな」
「かわいそう」
 浮かれ気分が一変、三銃士の言葉が癒えたはずの傷をぐりぐりと抉っていく。 明日から食後のデザートと、家でのおやつは禁止だ。そう心に決めた。
20160201